ファッション、クルマ、音楽... クラシカルでスタイリッシュなカルチャー "Rockabilly"

ロカビリーとは、1950年代のアメリカで黒人音楽のブルースと白人音楽のヒルビリーが融合して産まれた音楽

一般的にはあまり聞き慣れないワードかもしれませんかま、僕自身、ファッションやカルチャーに大きな影響受け、バンド活動だけでなくイラストやデザインにも取り入れています。
そう、ロカビリーの魅力は、音楽だけにとどまらない部分。

ファッションやアンティーク、バイク、クルマ、タトゥー等、ライフスタイルとして楽しめるカルチャーなのです。

そんなロカビリー魅力や楽しみ方を、ざっくり歴史を絡めながら語らせて頂きましょう...。

ロカビリー発祥の地"メンフィス"

音楽が盛んな飲み屋街"ビールストリート"

ロカビリーは1950年代のアメリカ、テネシー州メンフィスという田舎町で産まれました。コットン畑が広がるメンフィスはブルースの街とも言われ、今では世界的に有名なブルースマン、"ハウリン・ウルフ"や"ルーファス・トーマス"、"B.B.キング"など若かりに演奏、録音し、世界へ羽ばたいて行ったまさに原点であり、聖地。

そんな伝説のブルースマン達を見出したのが、706番街にある小さなレコーディングスタジオ、"SUNスタジオ"でした。

サンスタジオ(旧正面口)
オーナーのサム・フィリップスは「誰で気軽にレコーディングができる。」をコンセプトに掲げ、プロ、アマ、人種問わず様々なミュージシャン達をレコーディングしました。

地元のブルースマンを初め、多くの才能を発掘し、世界へと輩出していきます。それでも、インディーズレーベルとしての経営は厳しかったそうで、サムが悩んでいた時に白人の青年がスタジオへ訪ねてきます。

それが後にロカビリーを産み、アメリカの永遠のスターとなるエルビス・プレスリーでした。

伝説の始まり、SUNレコードとエルビス

サンスタジオのレコーディングルーム。1953年、エルヴィスはトラックドライバーをしながら貯めたお金を握り締め、「母の誕生日に贈るレコードをつくりたい。」とギター片手にSUNスタジオへやってきました。後日談で、母へのプレゼントでもあり、もう半分は自分の歌を試しかったのもあったそうです。

初めてサンスタジオへ訪れたその時サムは不在で、アシスタントのマリオン・カイスカーがレコーディングに立ち合います。

録音した二曲は「マイ ハピネス」と「心のうずくとき」という、どちらも静かなバラードでした。
マリオンはエルビスに才能を感じたものの、その時はロックンロールではなく"才能あるバラード歌手"としてサムに紹介したそう。

経営難に苦しんでいたサムが求めていたのは、「まだ誰も見た事がない、黒人のようなブルースとソウルを持ったスタイルで歌える白人シンガー」。バラード歌手のエルヴィスには特に注目しませんでした。

数ヶ月後、エルヴィスはサムに直接リベンジするべく再びサンスタジオへ足を運びます。初めてサムと対面しレコーディングするも、エルビスが歌ったバラードはサムには響かず大きな話には発展しませんでした。

しかしその後もサンスタジオの経験難は悪化するばかり...。マリオンはサムにエルビスに感じた才能が忘れられないと話し、今度はサンスタジオからエルビスにレコーディングのオファーをかけることになります。

これがサンスタジオの運命の別れ道となり、ロカビリー誕生のきっかけ、いや、アメリカの歴史、世界の音楽の歴史を変える弾き金となるのでした。

ロカビリー誕生の瞬間"サン セッション"

サムはスタジオミュージシャンであるギターのスコッティ・ムーア、ベースにビル・ブラックを集め、気合い十分のエルビスは上下ピンクのセットアップを着てスタジオに現れます。

その時少し口の悪いビルはピンクフラミンゴと言って笑ったそうです。

三人で始まったセッションは、エルビスが持ち歌を何曲か歌うも、メンバーとサムはイマイチな反応。
重い空気が流れる中、サムは一旦休憩を挟むと言いエンジニアルームを出ます。

その時です。

休憩だからふざけだしたのか、ヤケになったのか、秘めていた何かが覚醒したのか...、突如エルビスがギターをジャカジャカ描き鳴らしながら、飛び跳ね、奇声をあげながら歌い出したのです。
その曲はアーサー・クリューダップの"That's All right"というブルースでした。

メンバー二人はなんだそりゃ!?と思いつつエルビスが放つサウンドに自然とギター、ベース乗せ、理屈や概念など吹き飛んだセッションが始まりしました。それを見たサムは驚き、急いでエンジニアルームにもどりテープを回します。

サムは録音後、「君はどこへ隠れていたんだ!」とまで叫んだほど、エルビスはサムが求めていたまさに"黒人の要素を持った白人シンガー"というスタイルを開花させたのでした。そのスタイルからロカビリーと呼ばれるようになったとされます。

「That's all right」のレコードはメンフィス中にラジオで流れ大きな反響を呼ぶと同時に黒人と勘違いしたリスナーもいたそうです。

1954年、"That's all right"はカップリング曲に"Blue moon of Kentucky"を収録をしたシングルをリリース。ツアーを遂行しながら、エルビスの存在はアメリカ中へ広まります。

そして翌年、メジャーレーベルである"RCAビクター"と契約し、SUNレコードとの契約は終了。エルヴィスの"ロカビリー時代"はこのSUNで過ごした約2年間と言われており、RCA移籍後はまさにスターと呼ばれるべく活動や楽曲の幅を大きく広げていきます。

そして翌年、メジャーレーベルである"RCAビクター"と契約し、SUNレコードとの契約は終了。
エルヴィスの"ロカビリー時代"はこのSUNで過ごした約2年間と言われており、RCA移籍後はまさにスターと呼ばれるべく活動や楽曲の幅を大きく広げていきます。

田舎生活からスターへ

"エルヴィス登場"のリマスター盤

1956年。RCAビクター契約後メジャー初のアルバム"エルヴィス登場"をリリース。テレビにも出演するようになります。

しかし、腰を振ったり異端的なエルヴィスのパフォーマンスはPTAから「下品」「過激」と言われ、テレビでは上半身しか映されないという事態も。一部では"Elvis the pelvis"(骨盤のエルヴィス)というあだ名で呼ばれていたそうです。

その一方で、エルヴィスの過激なパフォーマンスは、若者からは爆発的な人気を集め、ロカビリースターとしてだけでなく、映画デビューも果たします。もちろん全てエルヴィス主演作。更なる人気を獲得したエルヴィスはもはやロックンローラーというよりアイドルのような存在に。

そして1958年の徴兵まで、一気にスターへの道へ駆け上がり、帰還後に華々しく活動を再開します。
60年以上経った今も、エルビスはアメリカの大スターとして、ロカビリーファンからはロカビリーの父として、またSUNスタジオはロカビリー発祥の聖地、アメリカの永遠のスター縁の地として、世界中から多くの人達が訪れています。
機会があればメンフィスという街ついてもお話してみようと思います。田舎街ならではの、よくあるイメージとは少し違うアメリカを知っていただけるかもしれません。

最後までお読みいただき有難うございました。

RYO NAKAYAMA